混合状態で自殺に失敗したお話の書き直し

去年の9月30日、私は自殺に失敗しました。

とても晴れた日で、心も軽く、

「死ななければならない、死ななくてはいけない、死ねばいいんだ、ワァイ」

と異常な思考に陥っていました。


「死ぬね!」と親しい人に連絡しました。勿論「症状によるものだ、止めろ」とお返事がありましたが、「私は冷静だよ!死ぬの!」と言って全く聞く耳を持ちませんでした。


家族と元恋人宛に遺書を書いてリビングにセットして、銀行口座とかも整理して、準備万端。


ビルの屋上に行きました。


双極性障害の混合状態のせいです。


しかし飛び降りが物理的に不可能だったので、次に首吊りに挑もうと考えました。


掲示板でやり方を調べて、縊死することを決めました。

しかし、どうも死に固執するのがおかしいのではないか、と途中で気付きました。


双極性障害のスレッドで

「飛び降りようとしたのだが混合状態か?」

と尋ねたところ、「明らかに混合だ」とのお返事が複数返ってきました。


そこで、ああ、双極性障害のせいか、と漸く納得して希死念慮や自殺企図は収まりました。


双極性障害の困ったところは、無自覚なところです。そして躁状態でも「なんであんなことしたのか?」と言われても自分でも分からないのです。


自殺しようとしたことも、何であんなに晴れ晴れと企図したのか今考えると甚だ意味が分かりません。

丁度うつからの回復期だったので、お風呂も入れてたし食事も少しずつ摂れるようになっていて良い感じだったのに。
でも、ここがまた双極性障害の怖いところなのです。その状態こそが混合状態だったのです。つまり、体は躁だけれど思考は鬱。だから、軽やかに自殺に向かうのです。


何で自分が自殺しようとしたのか、今では理解不能だということの序でのお話。

「病気のせいだとしても、お前がしたんだ」

と躁や鬱の症状が出たときに、当時の恋人に言われることがあったのですが、あれはかなり堪えました。

したくてしてるんじゃないのに。あれは私なのかもしれないけれど本当の私ではないのに。


序での序でに言うと、「気分の波は誰にでもあるからねぇ」というのも堪えます。日常生活すらまともに営めないほどなのに、それで片付けられると思うか?と。


話が逸れました。


自殺に失敗した私ですが、まだ生きてて良かったとは思いきれていない気がします。


だって、双極性障害は一生涯治らないから。

「みんなだって辛いんだよ」とか言われたって、知ったこっちゃありません。


でも自殺をしていたら見えていなかった景色や、死ななかったから出来た経験は沢山あります。嬉しいことだけじゃなくて、勿論悲しいこともあります。それが生きてるってことなんだと思います。


死んだらそこでお仕舞いです。その先の未来がなくなってしまう。未知の世界を知らないままになってしまう。それって少し勿体無い気がします。

「死んじゃダメだ」「兎に角生きろ」なんてことは言いません。ましてや「生きてれば良いことがあるよ」なんて言葉は無責任にさえ感じます。私自身が死ぬことを考えて企図した人間ですし。

「周囲の人が悲しむよ」なんて言われても、知らんがなって思ったし、その代わりに私が苦しむ方がマシなんだ?なんて意地の悪いことも思ってました。

でも死んでいたら見られなかった様々な景色や、出会うことのなかった恋人のお陰で、自殺に失敗したことを悔やむことは全くありません。生きちゃってるけどまあ悪くないかな、と思っています。上記のように「生きててよかった」と心から思うことは出来ていませんが…。


アルバイトではあるものの働けているし何とか生きていけるのかなあ。ゆくゆくは障害者枠正社員になりたいので、精進していきます。


双極性障害がまた暴れ出さなければ。
双極性障害をコントロールできれば。

一生治らないだなんて、ちょっと気が遠くなりますが…。


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Meli Melo

双極性障害患者の小説と病気のお話。