双極性障害について書くことのお話

「一人ひとりの個性を大切にしましょう」なんて、「個性」が無批判に賞賛されてきましたが、いまは人々が「自分がマイノリティである」という「個性」を発信し過ぎているという意見を目にしました。

それは納得できるものではありますが、私がこうして双極性障害やら精神障害について発信しているのも、それに当て嵌まるのか?なんて考えました。

精神障害はまずマイノリティなのでしょうか?私の周りには双極性障害の人はいませんが、鬱状態やうつ病になった人は何人かいます。でも、数が多いかなんてことは私には分かりません。
「会社に何人かいるよ」「何人か精神病んで休職してるよ」とかは耳にしますが。

ただ、「私って精神病患者なんだよね〜」「まじか私もだわ〜」というような会話は殆どないでしょう。

このようにマイノリティかどうかはよく分かりませんが、明るい話題ではないのは確かですよね。まあ当然のことですが。

「障害も個性である」なんて記述はわりとよく目にします。障害者も差別せず肯定的に捉えようという意図なのでしょう。

そうすると、「障害」という「個性」を発信することはどう考えられるべきなのか?と考え込んでしまいそうです。

可哀想って思われるだけなのではないか、障害者とか気持ち悪いと感じられるのが関の山なのか、それとも偏見の解消が期待できるのか。

まあそれは受け手それぞれ違うのは分かりきっているのですが、果たして障害について発信することに意味や意義はあるのか疑問に思うことはあります。ただの自己満足なのではないかと。

でも、私は書き続けたいです。勿論、可哀想なんて思われたくないし、差別意識を持つ人に気持ち悪がられたりなんてしたくないです。

でも誰かの目に留まって、何か良い影響や、大きなこと言うと寛解出来るという希望を与えられたら、それだけで書く意味があります。またそんな喜ばしいことが生まれなかったとしても、自分の頭の整理にもなるし備忘録や、大袈裟に言えば生きてきた記録にもなるので。

ただ、「私は差別されている!」「偏見を受けている可哀想な人間だ!」なんて大声で喚くようなことは、単に鬱陶しいだけであって差別や偏見を助長しかねないでしょう。うるせー知らねぇよ、と。

差別や偏見はあるでしょうが、発信することを目的にするのであれば精神障害者である前にひとりの人間であることを理解してもらえるようにするのが良い気がします。

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Meli Melo

双極性障害患者の小説と病気のお話。