レモン

季節は誰にでも平等にやってくる。泣いていたって笑っていたって、気付いたら新しい季節が静かに景色を変えるのだ。早く過ぎ去ってくれと願った季節も、このまま時が止まれば良いと祈った季節も、知らぬ間に過去へと変化する。子どもの頃は季節を遊び尽くし、季節が変わるころには物寂しくなったものだ。しかし大人になった花音は、過ぎ去っていった季節への感傷があまり湧かなくなっているとふと思った。

 変わり映えのしない仕事や見慣れた面々。気付けば知らぬ間に季節が通り過ぎていったが特段の不満はなかった。日々の些細な喜びを幸せとして受け取っていれば、それなりに心は色を保っていた。

 愛媛県今治市からフェリーで一時間ほどのこの小さな離島、岩城島。ここでは春になると三千本にものぼる桜が咲き誇る。それは龍が泳いでいるかのように山の峰の辺りで桜が連なるものだった。そのため普段は静かな岩城島にも春には観光客が舞い込んでくる。そして川谷花音が働く図書館では、桜まつりの一角で不要になった本を安い値段で売っていた。しかし桜目当てで来る岩城島にてわざわざ古本を買う観光客などほとんどいなかった。

 その日の販売スタッフは花音と、同期入社の理久だった。簡単に設置された白いテントの下で二人は来ないお客を待っていた。

「今年も全然売れないねぇ。」

 花音が唇に人差し指を当てながら言った。

「誰も来やしないのにここに居るのが仕事っていうのもな。でもこうやって座ってるだけなんだから楽なもんだろ」

 横にいる理久が両手を頭の後ろに回して呑気に返事をした。

「確かにこうしてのんびりしているのも悪くないけれど、これが仕事っていうのも酷なものだよ」

「ほら、家族連れがたくさんいるだろう。ああいうのを見ているだけでも心が温まるよな」

 理久が仲の良さそうな家族たちを見ながら言った。県外からも多くの観光客が訪れる桜まつりには、たくさんの小さな幸せたちが溢れている。

「子どもってなんであんなに可愛いんだろうね。周りを明るくしてくれる」

 目を細めて微笑みながら花音が言った。二人の前で、子どもが桜の花びらを掴もうと跳ねていた。それを親がしゃがみながら応援している。

「お前も早く旦那が見つかればなぁ」

 理久が揶揄うように言った。

 花音は今年で二十八歳だった。岩城島では早くに結婚する人が多いので、花音のような存在は少し目立つのだった。

「理久もそんなこと言うの?理久はもう家庭があって精神的に余裕があるからこそ、そんなことが言えるのよ。それに私よりも年上の職場の山崎さんだって結婚してないじゃない」

「何だよ、急にムキになって。それに山崎さんはもう手遅れだろ。お前は容姿もまあ美人だし性格も悪くないんだから頑張れよ」

「まあ美人って何よもう」

 二人がそんな無駄話をしていると、撤収の時間が迫っていた。そんなときに一人の男性が花音たちの居るテントに近付いてきた。男性は四十代ほどで、グレーのチェック柄のスーツを着て眼鏡を掛けていた。柔らかい雰囲気を身に纏ったダンディなおじさまといった具合だ。

「桜が綺麗で良い島ですね」

 軽やかなフルートが響くような声色で彼が言った。二人が揃って笑顔で対応すると、彼も目尻に皺を作って微笑み返した。

 帰り道、花音は機嫌が良かった。あの男性が素敵だと思ったからというだけだったが、花音にとってはそれだけで今日という一日が彩られるのだった。

「お前は幸せな人間だよなぁ。そんなことでニコニコしてられるんだからさ。大切な心持だと思うよ。本当に花音は悪い女じゃないと思うんだけどなぁ」

「そういうの心が抉られるからやめて」

 花音がそう言ってお道化ながら胸の辺りを抑えて苦しそうな顔をすると、理久は「はいはい」と言いながら花音の肩を叩いた。

 沢山の観光客が訪れる桜の季節が過ぎると、水不足に苛まれながらも静かな夕凪を愉しめる季節になる。そしてそれも過ぎると島内で行われる小さな祭りの季節になり、最後には町興しで栽培が始まったレモンの季節になる。

「花音、軍手忘れているよ」

 母鈴音が大きな声を発しながら玄関へバタバタと走りながら近付いてきた。父良治が「おい、まだか?」と運転席の窓から顔を覗かせて花音を急かしたものだから、花音は鈴音から軍手を受け取るとすぐに良治と兄将治の乗る軽トラックへと駆け出した。レモンの収穫時期は冬なので、暖かく着込んで行く必要があった。時間をかけて洋服を吟味しながら何枚も重ね着をしながら身支度をしていたら、男衆に遅れをとってしまったのだった。

 滑らかなフュージョンを流しながら、軽トラックは畦道を横目に進んでいった。心地良い音色に身を任せていると、花音の家のレモン畑に到着した。青々とした木々には緑色から黄色へと変化していく途中のレモンが実っている。収穫後、時間を経て完熟していくのでまだ緑色が残っている今に収穫するのだ。へたの近くを鋏で切ってはプラスチック製のケースに丁寧に入れていく。

「痛っ」

 花音が突然声を上げた。レモンの木には棘がある。軍手に洋服の袖を入れていなかったせいで、その棘に触れてしまったのだった。

「舐めときゃ大丈夫だ」

 昔ながらの男である良治がそう言ったので、花音は手首に舌をつけた。鉄っぽい味が幼い頃の日々を少し思い出させて悪くはなかった。しかしそれを見た将治が「ちょっと待ってろ」と言って軽トラックへと戻って行った。花音がついて行くと運転席の収納から絆創膏を取り出して渡してくれた。

「親父はガサツなところがあるからな。お前も女らしくしないと嫁に行けないぞ」

 将治に言われて花音はまた結婚の話か、と少しうんざりした。

 レモンが沢山積まれて動きが遅くなった軽トラックの車内で「結婚できなかったらお父さんのせいだからね」と花音が冗談めかして言うと、良治が「なんのことだ?」と不思議そうに答えた。その瞬間、将治が花音を小突いたので花音は唇を軽く噛んだ。

 黄色い季節が終わり、桜まつりの時期になり花音は慌ただしく仕事をこなしていった。一段落ついた新年度、図書館スタッフの間ではある話題で持ち切りだった。

「新人さんが入ってくるらしいのよ。でも四十二歳らしいの。使い物になるかしら」

 三十七歳にして独身で噂好きの山崎美代子が花音に身振り手振りを交えて言った。

 すると新人だという男がスタッフルームに入ってきた。花音は彼に見覚えがあった。心臓の鼓動が早くなる。去年の桜まつりで本を買ってくれた男だった。

「清水透です。前職は東京で本屋をしておりました。去年、桜まつりのときにこちらへ観光で来たときに島の美しさに惹かれて引っ越して来ました」

 木管楽器が音楽を奏でているかのような声に花音の胸がきゅっと反応した。横で美代子が「絶対に昔美男子だったわね」とじっとりと透を見ながら小声で言った。

 美代子が教育係になり、彼女はそれから毎日上機嫌に見えた。しかし次第に美代子はエスカレートしていき、馴れ馴れしく透にボディータッチまでもするようになった。そして図書館内では「二人は付き合い始めたのではないか」といった噂が蔓延った。

 

 ある日、使っていたコップを洗おうと給湯室に行くと理久に出くわした。花音から「お疲れ様」と理久に声を掛けると、理久は弁当箱を洗いながら花音の方を向いた。

「今年も本は売れなかったな。でも桜まつりに来た清水さんがまさかこの図書館で働いているとは驚きだよな」

 理久が少しふざけた調子で言った。

「本当にそうだよね。私なんて心臓が飛び出るかと思ったもの」

「それにしても美代子さんは露骨だよな。少し清水さんがかっこいいからって。婚期を逃して焦ってるのかな」

「それは言い過ぎよ」

 と花音が理久を制した。すると理久が一呼吸置いて低い声で言った。

「お前清水さんと話したいんだろ」

 花音は胸がチクリとしたが「そんなことない」と返して給湯室を足早に立ち去った。

 美代子を避けるようになり、花音は昼休みを図書館の裏庭にひっそりとあるベンチで過ごすようになった。そこにはレモンの木が植えてあったが、春には緑の葉をつけて棘を持つただの木であった。ぼーっとそれを見ていると冬のレモン畑を心に描くことができ、図書館内の噂話も美代子の透への執拗なアタックも気にせずに済んだ。

 花音がいつも通りレモンの木の前で弁当を食べていると、ガサッという音が聞こえた。草がぶつかり合う音はだんだん大きくなっていき、花音は身体を強張らせながら息を潜めた。

 人影が近づいてくると、それは透だった。

「おや、川谷さん。いつもお昼ご飯はここで?」

 透が優しい笑顔を見せたが、彼の穏やかな声も花音の心拍数を上げさせた。

「ここ最近はそうですね」

「皆が食べているところにいつも居ないから、どこにいるのかなぁと思っていたんですよ」

「すみません」

 花音がそう少し困った顔を見せると透は慌てて話題を変えた。

「去年、岩城島に来て良かった。美しい桜たちを見て僕はここに住むことを決めたんです。」

「岩城島は小さな町です。あらぬ噂も立つし、世界が狭い――」

「……それは私と山崎さんとのことですか?」

 透が眉を少し下げて言った。

「すみません、耳に入ってしまって」

 ふぅっと息を吐いて透が困ったように首を振った。

「噂は事実ではありませんよ。早々に仕事がしづらくなってしまいました」

 肩をすくめる透の言葉に花音は少し安心しながらも、彼の心中を思うと喜ぶことはできなかった。何も返事をできない花音を察してか、透が手を空へと上げて伸びをしながら言った。

「ここは落ち着きますね。僕も来ることにしようかな。そうしたら川谷さんともゆっくりとお話できますし」

 透がいたずらな笑みを花音に向けた。

「私は時間があるときはいつでもここに居るので」

 花音は喜びを感じながらも突然の言葉に戸惑ってしまい、上手く反応することができなかった。

 その日から時折、花音と透は図書館の裏庭で会うようになった。約束をしたわけではなかったが気が付くと二人とも始業前や仕事後にも裏庭に行くようになり、だんだんと二人が会う回数は増えていった。そして花音も透もお互いがいることを期待しながら、図書館の建物の角を曲がるようになっていた。二人の気持ちは次第に膨らんでいったが、花音は必死にその決して懐には入らないような関係を守ろうとしていた。

 いつものように仕事終わりに花音と透が裏庭にいると、花音の携帯にメッセージが届いた。発信者は透だった。不思議に思いながらメッセージを見てみると、思いもよらぬことが書かれていた。

『僕たちは二人とも言いたいことは決まっているのに我慢している感じなのではないでしょうか?』

 花音は突然の踏み込んだメッセージに戸惑いを覚えたが、反応を心配している透の様子が目に入ったので意を決して返事をした。

『透さんも私と同じ気持ちだということでしょうか』

『このあと、お食事でもいかがですか』

 こうして隣にいるのに口にすることなく二人は食事の約束をした。

「レモンの木は冬になると収穫時なのです。でもスーパーマーケットの店頭に並ぶ頃に美しい黄色になるように、まだ緑色が残っているときに収穫します。しかも棘まであるのです。私は実家にレモンの畑があるのですが、よくその棘が刺さって怪我をしたものです」

 花音が目の前にあるレモンの木を見据えながら言った。

「急にどうしたのですか?」

 透が首を傾げた。

「いえ、なんでもないです。ふと言いたくなっただけなので」

「そうですか。ではどこに行きましょうか。ここからは少し離れたところが良いですね」

 二人の関係を秘密にしなければならないような言いぶりに花音は少し悲しくなったが、美代子との噂が蔓延っていることを考えれば仕方のないことだろうと思った。花音とまで噂になったら透の立場が悪くなるばかりだ。

 町のはずれの雑居ビルの三階にあるレストランに行った。透が花音の前で手巻き煙草を作っている。巻き器にフィルターと煙草の葉を詰めて、さや紙を差し込んでくるくると巻く。そして最後に切手の要領でさや紙の糊が付いている部分をすーっと舐めて貼り付けると、一本の煙草が出来上がる。

 花音はその様子を見ながら透の舌に目が行った。さや紙を舐める舌が妙にセクシーで、心をざわつかせた。

「そんなに手巻き煙草が珍しいですか?」

 透が花音の視線に気付いて聞いた。

「……舌がセクシーだなと思って、目を奪われていました」

「そうかな」

 透は照れたように笑いながら頭を掻いた。

「ちょっとすみません」

 急に花音が席を立ったので透はきょとんとしたが、「すぐに戻りますので」と言われたのでやることも特にないまま花音を待った。花音は自分の中で膨らむ感情を処理しきれなくなっていた。透に踏み込んではいけないと言う理性と、透が欲しいという気持ちが激しく葛藤していた。

『止められなかったら、ごめんなさい』

 花音は透にそう送った。少し悔やみながらも、花音は自分の中で膨張していく気持ちに突き動かされそうになっていた。

 店を出るとすぐに小さな踊り場があった。透がエレベーターを呼ぼうとすると、花音が透のその手を制して一瞬だけ透を抱きしめた。

「さて帰りますか」

 何事もなかったかのような振りをして花音はエレベーターを呼んだ。エレベーター内で透は携帯を見ていた。花音のメッセージを今読んだのだろうか。そして返事をしているのだろうか。花音は急に怖くなって、透が携帯を仕舞ってからも自分のものを確認することはしなかった。

 そして透と別れた電車内で怖々とメッセージを確認した。やはり花音が透を抱きしめた直後のエレベーター内で返事をしたようだった。

『それでいい』

 透を求めることを躊躇せずに良いということなのだろうかと花音は解釈し、心音が聞こえるくらいに心臓が激しくリズムを打った。安堵しながらも少しの理性は働いていたので、呼吸を整えながら冷静に返事をした。

『先ほどは失礼しました。身体が勝手に動いてしまいました』

 踊り場で花音は抑えきれないほどの衝動に突き動かされてしまったのだった。

『あのあと僕、平静を装うのが大変だったんですから。君を連れて帰りたくなってしまった。でも、私にも立場がありますから、大人なので我慢しました』

『それは私を女として見てくださっているということでしょうか?』

『なぜそんなに僕を求めるのですか?』

『……危険な魅力があるから、ですかね』

『それは花音さんですよ。でも僕といたらあなたは不幸になる。タイプの女性を不幸になんてしたくないです』

『ただの同僚に戻ろうということでしょうか?』

 花音がメッセージを送ると、すぐに来ていた返信が止まった。言ってはいけないことを言ってしまったのかと花音は不安になったが、職場で顔を合わせる人間同士が恋愛関係になることはなるべく避けるべきだはうっすらと考えていた。しかし透の前では思想や信条は易々と感情に負けてしまうのだった。携帯をベッドの上に放り投げ、花音はシャワーを浴びた。透への感情を全て洗い流してしまおうといつもより念入りに身体を洗った。

 花音は眠りにつこうとしたが、携帯が目に入って落ち着かなくなってしまった。透から返信は来ているだろうか。何と書かれているだろうか。明日また裏庭に行っても良いのだろうか。意を決して携帯の画面を見ると透からの新着メッセージがあった。そして花音は少しびくびくしながら恐る恐るそれを見た。

『僕だって花音さんが欲しいです。ただ僕は花音さんを幸せにはできない。僕といると堕ちていってしまいます』

 花音は苦しくなりながら透のことを考えた。聞いている者を穏やかな気持ちにさせるような柔らかな声、沢山の幸せが刻まれているであろう笑い皺、手巻き煙草を作るときのセクシーな舌先。やはり透への気持ちは断ち切ることができなかった。シャワーを浴びながら心に抱いた小さな決意など、透の言葉の前では無力だった。

『私と、堕ちてください』

 花音はそう送って、逃げるように眠りについた。

 翌日、花音が裏庭へ行くと透がいた。

「もうここに来てくれないかと思っていました」

 花音が安堵した様子で透に言った。その言葉が聞こえていないのか、透はレモンの木をじっと眺めていた。

「僕らはレモンの木みたいな関係ですね」

「それはどういうことでしょうか?」

「美しい樹だけれど棘がある。果実が実っても完熟前に剪定されてしまう。きっと、僕らも関係性が熟す前に剪定されてしまうでしょう」

「そんなのなってみないと分かりません。未来は誰にも見えませんから」

「そうですね。もしかしたらとても美味しい実がなるかもしれない。もしかしたら、ね」

「何故そんなに悲観的なのですか?」

「僕は女性を幸せにしたことがないから……」

「私は透さんとならどうなっても良いです」

 花音はそう言い残して急いだ様子で図書館へと戻って行った。昼休みが終わる十分ほど前、花音はいつも給湯室に弁当箱を洗いに行く。そこで透へのメッセージを送った。

『今度、帰り際にキスしてください』

 一緒に堕ちていくと言ってしまったので、二人の関係性の中ではもう理性でブレーキをかける必要がなくなった。メッセージを送って弁当箱を洗っていると、再び理久に会った。同期入社の理久は七年間も一緒に働いているものだから、花音の変化にも鋭く気付く男だった。

「何か男絡みであっただろ?」

 突然の的確な指摘に花音はビクッと肩を震わせた。

「どうして?」

「理由を聞くってことは図星ってことだな。何があった?」

「いや、それは言えないんだけど」

「言えないということは職場関係か……ということは清水さんと何かあったんだな。お前ここのところすごく色っぽいんだよ。だから分かったんだ」

「それは本当に秘密にしておいて。清水さんのためにも宜しくね」

「大丈夫だよ。俺こう見えて口は堅いんだ」

「ありがとう」

 花音がそう言って給湯室を出た。理久が午後に飲むコーヒーを淹れていると、美代子が給湯室に入ってきた。

「さっき聞こえたんだけど、川谷さんと清水さんが男女の関係になったってことかしら?」

 理久は驚きながら狼狽えた。

「山崎さんが給湯室に来るなんて珍しいですね……先ほどのことは口外しないでということなので私からは話せません」

「あら、そう。別に良いんだけれど」

 美代子はそそくさと給湯室から立ち去った。

 仕事後、花音は裏庭で透を待っていた。残業しているのだろうか、その日はいつも会う時間を一時間過ぎても透が現れなかった。

 諦めて帰った花音が家に着くと、透からの新着メッセージがあった。

『二人の関係が外の世界に波及することは避けないといけない』

 すぐに給湯室での会話が漏れたと気が付いた。

『これから島のはずれにあるNeroというバーに来てくれないかな』

 帰宅したばかりだったが、急いで身支度をして外へと飛び出した。バスの進みがやけに遅く感じた。漸く最寄りのバス停に着きそこからさらに山のほうへ歩くと、普段誰も立ち入らないような山の麓近くにNeroを見つけた。

 薄暗いバーの中はレンブラントの音楽が流れていた。カウンター席しかない店内のいちばん端に透が座っていた。

「ここは僕の隠れ家なんだ。そうそう人が来ないからゆっくり話せると思って来てもらってしまったよ」

 ちびちびとウィスキーを飲みながら透が花音を見て言った。

「素敵なバーですね。こういうところ好きです」

「なら良かった。今日来てもらった理由はもう分かっているよね」

「私の迂闊さで……ごめんなさい」

「いや、君に落ち度はないよ。間が悪かっただけだ。でももう僕は裏庭に行くのは厳しそうだな。山崎さんに君とのことを根掘り葉掘り聞かれてしまったからね。はぐらかしたけれど、決定的なところを目撃されるのは避けないといけない」

「どうしてそんなに私との関係が明るみになるのを回避しようとするのですか?」

 花音が問うと透は少し困ったような顔をした。

「それはね、前から言っているように僕といると堕ちるからだよ」

「堕ちて良いって言ったじゃないですか」

「君のような素敵な女性を不幸にしたくないんだ。二人だけの世界に留めておけば、君にとっても幾分かマシになるかと思う」

 花音は明確な理由も知らされずに自身の存在を隠されることに少し悲しみを覚えたが、少しでも透の隣に居られるのならば、外界に触れようが閉ざされた二人の世界だけだろうが構わない気がしてきた。なにより外の世界に拡げさせようとすることで透との関係が一切なくなることを恐れてのことだった。

「これからも、こっそり会ってくださいね。私はいつでも待っています」

 Neroを後にすると、少し蒸し暑い気温を優しく吹き飛ばすかのような風が吹いていた。花音と透は違うバスのルートだったので、花音のバスが来てそのまま別れた。

「花音さん、ありがとう」

 去り際にそう呟いた透の唇が言葉を発したあともぎこちなく少し動いていたが、花音は何を言われるのかと怖くなって「ではまた」といってその場を去った。「また」という別れの言葉は良い。次があるということなのだから。その言葉を使ったことで、透との逢瀬が再びあると無理矢理ながらにも思えた。

『今度、帰り際にキスしてください』

 あのメッセージを覚えていなかったのだろうか。あのメッセージに対して透は何を思ったのだろうか。Neroを出たときに透はキスをしようと思っていたのか、それともキスする気などなかったのか。そんなことを考えていたら花音はバスの中で泣いてしまっていた。透を想いながら携帯を握りしめてバスに乗っていた。

 涙が収まったころ、透からメッセージが届いた。どんなことが書かれているのだろうか。当たり障りのないことだけだろう、と思いながらそのメッセージを開いた。

『道選びに失敗したかな』

 透は決してキスする気がなかったわけではなかったのだ。

『キスしてくれなかったのかと……キスする気がなかったのかと……私じゃやっぱり駄目なのかと……』

『あの場所じゃね。大人として我慢したんだ』

『あなたはいつも大人だからとか我慢するとか、そんなのばっかり』

 花音が初めて透に不満を伝えた。

『僕は本当に駄目な人間だから、気を抜くと底なしに堕ちてしまうんだよ』

 苛立ってきた花音は『私と堕ちてって言ったじゃないですか』と送って眠りについた。

 湿度で肌がべたつく季節になっても透は裏庭に来なかった。レモンの木の緑が生命の力強さを物語っている。透がやってきた春は美代子に邪魔されながらも花音の胸は躍っていた。束の間の甘い日々は過ぎて、透と会う頻度も滅法低くなっていた。勿論、花音には透を誘いたい気持ちがあったが、彼の反応を考えると自分から声を掛けることはできなかった。しかし、日々が過ぎるにつれて透との関係を深めたい気持ちは大きくなっていった。

 太陽にじりじりと焼かれるような夏の日だった。花音が裏庭で日傘をさしながら花の枯れたレモンの木を見ていると、去年の冬に家族でレモンの収穫をしている際に棘が刺さって血が出たのを思い出した。

――僕らはレモンの木みたいな関係ですね

――美しい樹だけれど棘がある。果実が実っても完熟前に剪定されてしまう。きっと、僕らも関係性が熟す前に剪定されてしまうでしょう

 その通りかもしれないと思った。既に花音と透の関係は剪定されてしまったのだろうか。それともまだ切り落とされてはいないだろうか。これで終わりにしたくはない、と花音は思った。二ヶ月ほど花音と透はただの同僚としての関係でいたが、それに花音は耐えられなくなっていた。

「やっぱりここに居たのか」

 急に現れたのは理久だった。「ここ最近ずっと元気がないから心配していた」という理久は、やはりよく花音を見ているのだった。

「清水さんとまた何かあった?ここなら山崎さんに盗み聞きされる心配もないだろ」

 心配そうに理久が花音に尋ねた。

「嫌われちゃったのかもしれない」

 寂しそうに言う花音を慰めるように理久が花音の肩をポンポンと叩いた。

「まだ分からないだろう。この間、清水さんと少し話したんだけれど彼も花音のことを気に掛けていたよ。お互いにビクついているだけなんじゃないか」

『今晩、Neroに来てください』

 職場を出るとき、花音は勇気を出して透に送った。そしてNeroでカクテルを飲みながら透を待った。来てくれるのだろうかと不安が募り、それに比例して酒が進んでしまった。

「遅くなりました」

 待ち始めてから一時間後ほどに透が現れた。

 手巻き煙草を作る透の舌をじっと花音は見ていた。あの舌はどんな感触がするのだろうか。どんな温かさがあるのだろうか。

「私たちは二人とも言いたいことは決まっているのに我慢している感じなのではないでしょうか?」

 以前に透から送られたメッセージを花音がニヤリとしながら口にした。

「さて」

 そう言った透は携帯電話の上で指を滑らせ始めた。

『それはどういうことでしょう?』

 何も分からない振りをする透の言葉に花音はむっとした。

『これで良いのですか?私は透さんが欲しいです』

『大人として我慢しなければならないのですよ』

『またそれですか。ということは、透さんも私が欲しいということでよろしいですね』

『全くもう……』

「私と話していない間に何を考えていましたか?」

「花音さんのことを、考えていましたよ」

 他のお客が誰もいないNeroで花音が透の目を見ながらはっきりと言った。

「私と堕ちて一緒に堕ちてください」

 Neroを出た二人は、ホテルへと向かって歩き出した。花音が横に並んでいた透の小指を掬い取って手でぎゅっと包み込むと、透が二人の指を絡め合わせた。

 部屋に入るとすぐに透が手巻き煙草を作り始めたが、感情に突き動かされそうになっている花音は我慢できないといった表情で、さや紙を舐める透の舌先をじっと見つめていた。

「よしよし」

 透が花音の頭を撫でながら煙草に火を付けるとバニラの香りがふわっと漂ってきたので、花音は息を吸い込んだ。

 強烈に甘い時間だった。二人の境目が分からなくなるほどに蕩け合い、立てなくなるほどに滅茶苦茶になった。そして隣で眠る透の体温を感じながら、ここから堕ちていく先はどこなのだろうかとぼんやりと考えていた。透はどんな不幸を見せてくれるのだろう。それがどんな景色であっても、透になら苦しませられたいし悲しませられたいし泣かされたかった。棘に触れて血が出ても、それも一つの幸せなのだろう。

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Meli Melo

双極性障害患者の小説と病気のお話。