うお座

 「今日の最下位はうお座の方です」リビングからそんな音声が聞こえてきて、蒼井はネクタイを締める手を止めた。僕は何に縛られているんだろう、会社なんて辞めて終えば良いのだ。そう思ってからは早かった。ネクタイを放り投げてドリスヴァンノッテンのジャケットを着た。

 青山のピアーズカフェに行き、煙草を咥えながら退職願と退職届を一気に書き上げた。「一身上の都合で」。こんなにも簡単にしがらみから解放されるなんて、考えてもみなかった。ポストに差し込み封筒の端を指先で軽く押すと、蒼井は今にも踊りだしたくなる気持ちになった。最低気温がまだ十度にも届かない三月の空気が、蒼井の心をより一層清々しいものにさせた。重苦しい深海から柔らかな浅瀬へと抜け出した心地だった。

――僕は自由だ。何者にもなれる。

 その足で蒼井はドリスヴァンノッテンやアンダーカバーへと繰り出して、値札も見ずに洋服を買い漁った。両腕に食い込む重みが増すほどに、蒼井の足取りは軽くなった。

 帰宅後、購入した洋服たちを見ていたら自分の最も理想とする洋服のイメージが浮かんできた。僕は天才なのではないか、と思った。近頃は素人が手作りの品を販売できるサイトもあるので、それを使って一儲けすれば会社など行かなくたって食べていけるだろう。

 すぐにオカダヤで布地を調達して洋服の製作を開始し始めた。広告塔は自分がやれば、モデルを雇わずとも問題ない。蒼井は目の前すべてが煌めいて見えた。

 洋服の製作が終わり、ルックを撮影する準備のために蒼井は美容院に行った。髪の毛をどのようにしたいかの要望を伝えて、髪の毛を切ってもらっているときだった。

「お仕事は何をなさっているのですか?」

 蒼井は答えに窮した。仕事を辞めて洋服を作っているなど言えなかったので、辞めた会社に今も務めていることにして話を始めた。しかし段々自分が何をしていたのか意味が分からなくなり、目を赤くしてしまった。

 なんとか美容院を終えて家に帰り、鏡を見ると白に近い金の髪色をした男がいた。蒼井は絶望した。

――僕は何者でもない。

 それから蒼井はベッドから出られない日々が続いた。カードの請求明細書を見て、自分の行動を思い返しては溜息しか出なかった。仕事もないので働かなければならなかったが、外に出られそうになかった。食事を取れず風呂にも入れない日が続いて、ぐしゃぐしゃの金髪がその悲惨さを物語るようだった。

 気分は持ち直してきたがまだ普通の生活まではできそうになかった頃、蒼井はふと気が付いた。死ねば良いんだ。

 何でまたこんなにも簡単なことに気が付かなかったのだろう。死ねばあらゆることから解放されるではないか。死のう、死んでしまえ、死ぬのが良い、死ぬべきだ、死ななければならない。

 そうと決めると行動は早かった。床に伏していた日々が嘘かのように、てきぱきと身辺整理をして家族向けに遺書をしたためた。

 蒼井の家には丁度天井に梁が通っていたので、そこにロープを巻けば済むと思われた。今日は天気が良い。自殺日和だと思った。晴れやかな気持ちで早速ロープを買って梁に巻き付けようとしていたところ、玄関のチャイムが鳴った。

 こんなときに誰だよ……と思いながらドアを開けると同僚だった佐条が立っていた。佐条は部屋の中を目にするや否や、ずんずんと中に入ってきてロープを取り上げた。

「何をするんだ、僕はこれから死ぬというのに」

 穏やかな諦念に溢れた顔でまるで空へと上がる風船のような声で言った。

「正気じゃない」

 佐条は蒼井の目をしっかりと見つめて言った。

「僕は正気だ。きちんと考えたんだ。身辺整理も入念に終えたし、勢いでやっている訳じゃないってことくらい伝わるだろう。」

「いや、狂っているよ」

 そう言うと佐条は折角用意したロープを持って出て行ってしまった。蒼井は仕方がないので飛び降りることにした。

 遠くなっていく佐条とは反対側に歩き出し、祖父母が持っているマンションへと向かった。オートロックの鍵は持っていなかったので、十四階まで自分の足で登っていくしかなかった。段々と空が近づいてくる。天国への階段を一歩ずつ踏みしめた。

 屋上へと入るドアが目の前に来た。しかしそれがどうしても開かなかった。押しても引いても回らない。少し考えてみれば当たり前のことだったが、死ぬ気持ちでいっぱいの蒼井はそれにすら気が付かなかった。

――失敗した。

 佐条から言われた「正気じゃない」というフレーズが頭の中を巡った。本当にそうなのだろうか。今の僕はおかしいのだろうか。思えば会社を辞めようと思ったときから、理解し難い行動を沢山している。あのときの万能感が嘘のように、突然ベッドから動けなくなり、終いには自殺しようとまでしたのだから。

 僕は何者だ。どれが本当の僕だ。明日はどんな僕になる。

 そう思うと恐怖でたじろぎそうだった。きっと浅瀬になんて出てきてはいけなかったんだと思った。普通の生活がいちばんだと漸く気が付いた。普通に戻りたい。もう遅い。

 遺書を握り潰してライターで燃やした。忌々しい新品の洋服たちも、ごみ袋へと投げ捨てた。

 怯懦だ。ただの、怯懦だった。

0コメント

  • 1000 / 1000

Meli Melo

双極性障害患者の小説と病気のお話。