メタ・タルタ

 春の風は強くて、念入りにセットした髪の毛もすぐに台無しになった。


 それでも春が好きだった。梶井基次郎が「桜の樹の下には死体が埋まっている」と言っていたから。


 保健室に荷物を置いてすぐにお手洗いへと向かい、頭髪を整えた。長く伸びた髪をふわふわに巻いたツインテールにさくらんぼのヘアピンが詩音のトレードマークだった。ロリータという概念が存在してくれることが彼女にとって救いだった。それは日常を非日常的な夢物語に変えてくれた。下品で退屈な数多の女子高生たちとは違うのだと感じさせ、一種の選民意識も芽生えさせた。


 講堂で行われている礼拝の様子がスピーカーを通して聞こえてきた。読み上げられるマタイによる福音書を無視して、詩音はヨハネの黙示録を読み神の最高傑作であるレビヤタンに思いを馳せた。礼拝当番が自分の話を始めた頃、興味がなかった詩音は窓の外を眺めていた。怯懦、卑しさ、醜悪といったドロドロとしたものを空が濾過してくれたら良いのにと思った。目を瞑ってみたが、空はドロドロによって薄汚れていくばかりだった。


 足元にメタが絡みついてきた。元々野良猫だったメタを詩音が保健室に招き入れたのだ。当然ながら不衛生だと言う保健室の先生に頼み込んで、詩音の机がある二畳ほどのスペースでだけメタを入れることが許された。本当はメタ・タルタという名前にしたかったのだが、長いからという理由で却下されてしまったのだった。それは、黙示録に出てくる単語で、「その後」という意味だった。


 俄かに校内が騒がしくなってきた。気付けば昼休みになっていた。保健室のドアが開き、叫び声にも似た声たちが一気に入り込んだので、詩音は動悸が激しくなるのを感じながら下を向いて耳を塞いだ。不意に、誰かに頭を撫でられたので「ヒィッ」と声が出た。

「大丈夫だよ、僕だよ」

 優しくも少し悪戯な声がして、顔を上げると颯人だった。

「今度ライブがあるから御出で。学校の奴らは誘ってないから、安心して」

 Leviatanのメンバーである颯人は詩音にとって自慢だった。どうせ笑止だろうと思いながら受け取った誕生日にもらった音源は、どんな音楽よりも格好良く感じられてあれから毎日聴いている。


 颯人と会う度、颯人のことを考える度、最近覚えた四字熟語、「比翼連理」をこっそりと思い浮かべていた。

「目と翼が一つずつしかない鳥ってどう思う?」

 詩音が突然聞いたものだから、颯人の目が一瞬大きくなった。

「……綺麗だと思う」

 Leviatanのライブは、轟音という言葉がぴったりだった。でも、五月蝿いのではなくて儚げだった。そんな竜巻のような音の中で苦しそうに歌う颯人の姿が、終演後も頭から離れずにいた。そのまま絞め殺したい気がした。


 颯人は「死にたい」とよく言っていた。詩音はそれを「消えたい」「逃げたい」だと解釈していたし、言葉通りの意思ではないのにも関わらずその言葉を遣う颯人が綺麗だと思っていた。


 桜が咲き始めた頃、颯人が保健室に来た。

「手を繋いだまま桜吹雪の下で死体になろう。それは屹度完璧な美しさだよ」

 いつも通りの柔らかな声で穏やかに言った。詩音は少しびっくりしたがとてもロマンチックだと思った。


 それからの二人は早かった。詩音はロリィタ服を買うためにしていた貯金を叩いたし、颯人は大切にしていたギターやエフェクターを売った。そうして致死量に達する錠剤を個人輸入で掻き集めた。英語で書かれた説明文など読めなかったが、死ねるのならば何でも良かった。


 その日がやってきた。なるべく人目につかない公園で決行することにした。到着すると、二人は繋いだ手に目をやって深く深呼吸した。

 桜の樹の下で、二人はまるでピクニックでもするかのように錠剤を噛み砕いていった。颯人がふらりと倒れたので、そのときが近いと思った詩音は彼の手を取って横になった。目を瞑って輪廻の柵から解き放たれるイメージをしていたとき、詩音は下半身に違和感を覚えた。丁度ダイオウグソクムシのような生き物が、しかもピンク色やオレンジ色をした無数の蠢くものたちが、目に飛び込んだ。ぞわぞわという感触と共に、詩音の上半身に向かってやって来るのであった。

 詩音は恐怖のあまり、颯人と絡めていた指を解いて、色鮮やかな奇妙な生き物たちから逃げるように走った。走っている途中、魂が籠ったかのように遊具が地面から解き放たれようと動いていた。存在する筈のない人間を何人も見かけた。


 必死の思いで家に帰ると、そこにはいつもの日常があった。

「詩音ちゃんどうしたの?」

 母親が呑気に尋ねた。ふと颯人のことが頭に過った。死んでいたらどうしよう。そう思った。急いで公園へと戻ると、救急車が止まっており近くには人だかりが出来ていた。

「すみません、彼女なんです」

 息を切らしながら詩音が人の間を縫って颯人に近づこうとした。颯人は白目を剥いて泡を吹いていた。救急隊員に止められて触れることも出来なかった。

 数日後、ICUで処置を受けた後に回復した颯人と面会する機会があった。颯人は死ぬことを提案した自分を責め、詩音は颯人を置き去りにしたことで自分を責めた。二人の間に殆ど会話はなかった。


 完璧な美しさの死などないのだ。淡く甘い綺麗な死などないのだ。

 あれから五年が経って、颯人は不意に桜の樹の下でのピクニックごっこを思い出した。

「自殺をしても綺麗ではない年齢になってしまったね」

 ぽつりと呟いた。

「え?聞こえないよ」

 さくらんぼ柄でフリフリのエプロンを付けた詩音がキッチンから尋ねたが、颯人は「何でもないよ」とだけ返事をした。

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Meli Melo

双極性障害患者の小説と病気のお話。